急いでトリミングを頼んだ理由
「ルルルルr・・・」
ある日の昼下がり、電話が鳴りました。
「もしもし、急ですみませんが、明日トリミングをできますか? それで、三時過ぎまでに出来上がりますか?」
「あら、マダム、え?ラッキーちゃん(仮名)を、三時までにですか・・・、はい、何とかできると思います。」
すでに一頭先約がありましたが、二番目のとりかかりでも、多分三時までに出来るでしょうとのマル子の判断で、引き受けることにしました。
翌日、プードルのラッキーちゃんが来ました。少々もつれ毛です。
(うーん、これはもつれを解くのに少し時間がかかるわね。)
それでも三時までに終わるように、スタッフは手早く仕事にとりかかります。普段よりおしゃべり少な目に・・・、幸い予定通り、トリミングは終わりました。約束通り三時五分前に、マダムがラッキーちゃんを迎えに来られました。
「マダム、どうもお待たせしました。」
「ありがとう、ごめんなさいね、急がせて。実はね、もう、主人の具合が悪いのよ。去年の四月に癌が見つかって、その時点でお医者さんから『もう難しいかと思います。』と、言われてたの。それでも、正月も迎えられたし、今までもったから・・・。
今度、転院して、ホスピスのある病院に入れようかと思っているのよ。あのね、そこなら、ラッキーも一緒に入れるんだって。犬を置いてもいいんだって。ラッキーは主人が大好きで、いつも主人のそばについてまわったからね。
主人もラッキーラッキーって、呼んでいたし。それでね、病室に入る前に綺麗にしとかないといけないかと思って、今日、トリミングをお願いしたのよ。」
「えっ!? そういう事情だったんですか・・・。それで、トリミングを・・・。」
私たちは絶句しました。つい数か月前まで、ゆっくりした足取りで、ムッシュも一緒に来院して下さっていたからです。
(そうか、愛犬も一緒に入院できるホスピスがあるんだ。最近はそんな施設もあるんだ、それでトリミングを・・・。)
美容の部門は、ただ単に清潔で可愛くて快適な生活を提供するサービスだと思っていましたが、そうじゃない。
人はそれぞれ、色々な事情を抱え、色々な思いで、時には胸に悲しみを秘めながら、笑ったり、車を運転したり、そして犬を綺麗にしたりしているんだ。私は改めて、そう思わされたのです。
推察力は人並みにあると思っていた私でした。 しかし、まだまだ予想外の出来事にドキリとすることばかり、想像力の及ばない世界が、すぐ隣りで繰り広げられていることを気づかされたのです。