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聖ノア通信 - 当病院の日々の出来事、ペットにまつわる色々な話をつづります -

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日向峠の親子犬

「先生、ひゅうが峠に、犬が三匹トボトボ歩いていましたよ。母犬と思われるやや大きな犬と、多分子犬でしょう、二匹ついて。あれは、捨て犬でしょうかね?可哀想に・・・」

ある日のことです。北海道、関東、全国各地から来られた牧師達が七名ほど福岡に集まって、会議があったそうです。その移動中に、車から見たのでしょう。宮崎から来た一人の牧師が私にそう話してくれました。

雨に降り込められた薄暗い峠道を、車に押しやられるようにしてびくびくしながら脇を歩いている、痩せ犬親子のびしょ濡れの姿が私の目に浮かびました。

「ひゅうが峠?・・・、ああ、あれは日向(ひなた)峠と、こちらでは言うんです。
 ・・・そうですか、あそこを犬たちが歩いてましたか・・・。」

「そうそう、私も見たよ。あんな人家のない山を、あれは捨てられてるんだろうね。ただ、母犬は、首輪をしていたようでしたが・・・。」

もう一人の先生も、一瞬の追い越しざまに目がいったのでしょう。ありありと思い出すようにして、本当に気の毒そうにそう言われました。

子犬を連れてあんな車の多い峠道をうろついているとしたら、野犬とは言わないまでも、食べ物を探しているノラ犬かもしれません。

私は普段から迷い犬や捨て猫のたくさんの情報に囲まれているので、たとえ峠道で犬の親子を見つけても,何とも思わなかったかもしれませんが、

でも、その先生方は、「可哀想に・・・」と気になって、獣医である私にそして誰かに話したかったのでしょう。

その時その話を聞きながら私は、「可哀想に」という言葉は、別に同情でも、さげすみでもなく、人の自然な心の動きとして、大事な美しいものだと感じたのです。

「可哀想に」という言葉は、時には使用を避けられている微妙な言葉かもしれませんが、可哀想が生まれる心が人から無くなったら無機質になるだけで、決して平等や公正が行き渡るとも思えません。

なぜかしらもう一度「可哀想」と言う言葉を思い巡らしながら、
日向峠の親子犬を思ったのです。

さて、福岡で会合された七人の侍ならぬ羊飼い達に、アメージング・グレイス、神の祝福が伴いますように。
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