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聖ノア通信 - 当病院の日々の出来事、ペットにまつわる色々な話をつづります -

今は、それどころではないから

「カメ子、今日は診療が終わったら、往診があるぞ。」

「はい、用意しておきます。」

その日は、ダックスのクーちゃんの飼主さんから電話があったのです。この一週間ほど急に食べなくなり、ぐったりしているので来てほしいとのこと。

飼主さんは私より少しご年配くらいの方で一人暮らしです。膝が悪くて外出が難しく、車も運転されないので坂道の上のアパートから病院まで出てくるのが大変なようです。
それでも動物好きで、犬を二匹飼っていたのですが、部屋中犬たちのタオルやマットでいつも一杯でした。

「こんばんわ! 遅くなりました。」

後片付けもそこそこに、カメ子と二人、クーちゃんのお家についたのは夜の十時近くになっていました。

「先生、いらっしゃい。待っていました。」

何度も来ている家です。ズンズン部屋に上がると、私はクーちゃんのそばで座り込みます。容態を聞き、怒るクーちゃんをなだめながら体温を測り、検査用に採血も済ませた時です。

さあ、検査結果がわかるまで、点滴をしてあげようと準備をしていると、私の視界右手に、何かが映りました。

そこにはぐっしょり濡れたタオルケットが置かれていたのですが、その下から黒い大きな虫が走り出てきたかと思うと、長い触角をうごめかしながらジグザグに走行し、そのまま左側、クーちゃんをあやしながらひざまずいているカメ子のいる方へ突っ込んでいきます。

「おっ、カメ子、ゴキブリだぞ! ゴキブリがそっちに行った!」

往診先で失礼ながら瞬間的にそう叫んだのは、カメ子の身を案じてのことと、ご容赦ください。私はてっきりカメ子が「キャーッ、ゴキブリ!? え? どこですか?どこどこ?」と、飛び上がるのではないかと予想して、一秒でも早めにと、伝えたつもりだったのです。

ところが次の瞬間、何が起こったでしょうか!

なんとカメ子はこう言ったのです。

「今は、それどころではないから、いいです。」

クーちゃんを抱えて、ひざまずいているカメ子のつま先に寄り添うようにしてゴキブリが隠れたのを見ながら私は、びっくりしました。

「え? ゴキブリだよ、君のつま先に登りかけてるよ!」

「いえ、それよりも、先生。きつそうなクーちゃんに、早く点滴の準備をしてあげましょう。」

顔色一つ変えずにそう言うカメ子に、私はいたく感動しました。

(お、おい、・・・カメ子。君は、・・・いつのまに、そんなに立派な看護士になっていたんだい!)

とても私には真似の出来ない、落ち着き振りでした。カメ子がこんなに優しい愛情深い看護士だったとは・・・。

その夜から、私にとってカメ子の株価は270円くらい上がったのです。
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