プロのレベル
年の瀬も押しつまって来た朝です。
患者さんも何かと忙しいのでしょう。診療は減っていました。でも、きれいになって正月を迎えようとシャンプーカットにやって来る犬たちが多くて、賑やかです。
さて、一頭のプードルの耳を診ている時に、カメ子が言いました。
「先生、私ですね、昨日なんだかぞくぞくしてきて、寒気を感じたんですよ。おかしいなあ、熱でも出たかなあ・・・と思って体温を測ったら38.5度あったんです。
うわあ、大変、風邪ひいたかなあって思っていたら、吐き気もしてきてですね。
こりゃ早く寝なくちゃと思ったんですが、でも、『科捜研の女』を見てたんで、寝なかったんです。
先生、あれ、面白いんです。主演の沢口靖子がいつか別のバラエティで出てたんですが、『私はここを押さえるとすぐ涙が出るんですよ。』って言って、目のとこを押さえたら本当に涙が出てたんで、びっくりしました。」
「うん、沢口靖子は綺麗な女優さんだねえ。でもねカメ子、女優が演技する時の涙は、本当はそんな程度じゃないみたいだよ。
ある番組で、女優は漫才を目の前で聞きながら泣けるか?それとも漫才師はそれを防げるかって対決してたんだ。
だけど女優さんは吉本のある漫才コンビの目の前に座って聞きながら、すぐ泣いたんだよ。
そしたらね、ゲストの女優、樹木希林さんがコメントしたの、
『あのね皆さん、女優が泣くのは簡単なのよ、女優は泣こう泣こうと頑張って、泣いてるんじゃないの。
撮影の時はね、女優は(泣くまい、泣くまい)って、涙をこらえるのよ。だけどね、どうしてもこらえ切れなくてスーッと流れ落ちてしまう涙、それをカメラは撮るのよ。』
僕はそれを聞いた時、ああ、やっぱり何でもプロの世界は奥が深いんだなあ、素人が考えてるのなんか、全然及ばないなあって、つくづく思ったよ。
どんな世界でも、プロとして生きると言うのは、そういうことなんだね。」
「ふーん、なるほどですねえ。」
「そういう意味では、カメ子の酒飲みはプロの域だねえ。
飲もう飲もうとして飲んでいるんじゃなくて、飲んじゃいけない、飲んじゃいけないと思いながら、つい飲んでいるんだからねえ。」
「むむ・・・・・・・」
純愛
「私のアランが、明日この子を迎えに来るから・・・」
「え?アラン?」
「ホホホ、この人よ、自称アラン・ドロンなんだって。この旦那があした引き取りに来ますから、明日までもう一泊させてくださいな。」
下痢症の子猫を預かっていた時です。良い便が出て、そろそろ帰れようになった頃、マダムBがそうおっしゃいました。
「なんだ、先輩、石原裕次郎じゃなかったんですか?」
旦那は地域の草テニスクラブの私の先輩でもあります。口癖は石原裕次郎でした。
「ハハハ、うん、裕次郎だったね・・・。」
そういうと、先輩はおもむろに財布から三葉の写真を取り出して見せてくれる。
それは石原裕次郎のブロマイドと、とても綺麗な映画女優の横顔でした。どちらもモノクロ写真です。ラミネートフィルムで大事に包まれています。
(ずいぶん昔のブロマイドを持ち歩いているんだなあ・・・、ところで、この女優さんは誰だろう?)
と、首をかしげながら写真を裏返した時でした。
裏側にはその二人が一緒に写った写真がありました。しかも福岡市西公園と書かれ、昭和の日付があります。
「ええっ! もしかしたら・・・、これ、先輩と奥さんですか!?」
私は衝撃を受けた。
もう60をとうに過ぎた先輩は、山から下りてきた古だぬきのようにお腹も大きく、目尻も垂れ、料亭の玄関に徳利を持って立っていたら似合いそうな風貌です。ジョークが好きで、いつも人を化かすようなような冗談ばかり言っている。
その先輩が若い頃、こんなにかっこよかったとは、とても信じられない。
この写真は、裕次郎ではなく、裕次郎スタイルを真似た先輩だったとは!
それにマダムのポートレートも、てっきり女優さんと間違えるほど、美しい写真です。
「あの、本当にこれは先輩はですか? 奥様と同じ大学だったのですよね?」
以前もちょっと紹介したことがあるが、改めて尋ねた。
「うん、同級生だよ。」
「この人がね、スケートがうまいと友達から聞いて、そのころ体育の授業でスケートがある予定だったので、ちょっと教えてもらったのよ。
坊主あたまに黒の詰襟を着て来て、まあ今どき、宇宙人みたいな大学生と思ったわ。
数か月した頃バスに乗っていたら、『やあ!』って声をかけた男性がいて、(誰だろう?)と、わからなかったんですけどね、髪を伸ばした彼だったのよ。え?一年生の時ですけどね。」
「それからさ、、この人がある日突然、僕の部室に来て、『千円貸してちょうだい』って言うんだよ。ハハハ・・・
未だにその千円、返してもらってないけどね、ハハハ・・・」
このあたりの話しは、以前一度紹介させてもらいましたが、まさかこの先輩が、今も肌身離さず二人の出会ったころの写真を持っているとは、思いませんでした。
・・・純愛だなあ・・・
先輩に似合わないけど、これが純愛だなあ・・・
帰られる二人の後ろ姿を見送りながら、私は脱帽したことでした。
心が通じた!
「ええっ! あの子が慣れたんですか!」
マダムの話しを聞いて、私たちはびっくりしました。
マダムはマンションにお住まいですが、最近庭先にやってくるようになった野良猫兄弟に同情していました。そしてひそかに餌を与えていました。
「先生、私はできれば家に入れて、飼ってあげたいんですけどね。」
「マダム、根っからの野良育ちでしょ。それは無理ですよ。野良猫っていうのは、街に住むヤマネコみたいなものなんです。餌をもらいに近づくことはあっても、決して飼い猫のようになつくことはありませんよ。」
「やっぱり、そうなんですかね・・・。」
がっかりした顔でマダムは帰って行かれました。しばらく前から、餌だけもらいに来る兄弟猫、「お兄ちゃんと弟君」猫を、なんとか世話してあげたいと願っていたからです。
ところがそれから数か月後でした。
「先生、トラップを使って、お兄ちゃん猫だけ捕まえたんです。そして家に入れてあげたんですが、最初は大変でした。びっくりして、警戒して、大騒動でした。
でも、だんだん慣れてきたんです。少しづつ触れるようになり、そして最後はついに膝に乗るようになりました。体を撫でてと、自分で甘えて来ます。」
「えー、本当ですか!? 野良猫がねえ・・・、そんなに慣れるなんてねえ。」
私は聞いて、感心しました。
生まれた時から野良育ちでも、やっぱり愛情を注げば、相手に通じることもあるんですね。
「絶対に無理!」とは、決まってないのでした。
暗い夕闇の中に現れる野良猫を待ち続ける熱心さと、引っ掻かれても咬みつかれても惜しみなく差し伸ばす愛情の手が、野良猫の人間観を変えることもあったのでした。
「女房はね、今も弟君猫をなんとか捕まえて、家に入れてあげたいと、トラップを用意してねらっているんだけどね。」
猫の心臓の薬を買いに来られた時、ご主人が、笑いながらそうおっしゃっていました。
昨日の敵は 今日の友
「いやあ、私は以前は、猫嫌いだったんですけどねえ・・・」
白髪頭を掻きながらムッシュKが、昔を思い出しつつ、笑顔で話してくれる。
ムッシュは自動車修理や販売などをされている社長さんです。
「もともとはね、私は鳥を飼うのが趣味だったんですよ。小鳥をね。ほら、メジロを飼ったりする人がいたでしょ、昔は。
たくさん飼って、こまめに世話してね。
専用の小鳥小屋も作ってたんですよ。それで近所の猫なんかが忍び寄ってくるでしょ、こっそり。
それを見つけては、『こらっ! 何してるっ!』って、ほうきを振り回して、野良猫を追い払ってたんですよ。
猫を目の敵にしてね。
ところがね、ある時弱った猫が迷い込んできてね。なんだか可哀想だから、助けてやったんですよ。
食べ物をやったりしているうちに居ついてね、それから猫好きになっちゃって、ヘヘヘ・・・。
今はね、車庫に猫が出入りできるように、通り口も作ってあげてますよ。
え?小鳥ですか? いえ、もう、飼っていません。猫だけ。」
当院に買いに来たキャットフードを抱えて帰りながら、ムッシュはそう教えてくださった。
最近のムッシュの趣味は、弱ってやせ細った野良猫や、母猫とはぐれた子猫を保護して養ってあげることだそうです。
自宅では、お気に入りのクロちゃんを家に上げて一緒に暮らしています。
廃車された車も一台、工場の隅に置かれ、これは猫の隠れ家にされているようです。
すっかり猫派になったムッシュ。猫の話しを始めると、表情が緩み、目が細くなって話しが終わりません。