父さんが倒れたから、それどころじゃないんだけどね、お前、どっから来た?
「なんやて! 父さんが倒れた! うん、うん、すぐ帰るよ。」
ある夜のことです。ムッシュTに緊急の電話がありました。ムッシュはすぐに準備をして、家を出ます。しかし、ムッシュの家は大阪です。福岡まで、遠い道のりです。
「そういうわけで、僕は今夜発つから、家の事は頼むよ。」
奥さんに言づけると、ハンドルを握り、夜の高速を走り続けました。まず実家に向かいます。
朝、明るくなって、ようやく関門海峡を渡り、北九州から古賀を抜け、そして福岡に帰ってきました。
「ただいま、・・・あれ、玄関に猫がいるぞ! お前はどこの子だ?じっとうずくまって、逃げないのかい!? ・・・あ、姉さん、ただいま、今帰ったよ! ・・うん、車だよ、で、どうなの、父さんの具合・・・・・」
一通り話を聞いて、ひと息つく暇もなくムッシュは病院に向かうため、また車に飛び乗ろうとすると、
「おや、猫ちゃん、まだ座っているんだね、フフ、ここで誰か待ってるのかい?」
ムッシュは茶虎の痩せた猫に声をかけ、車を発進させます。とにかく父親の顔を見ないと、落ち着きません。病室のドアの前で一度立ち止まり,呼吸を整えて、コンコン
「失礼します、・・・父さん、ぼくだよ、・・・・ん?・・・寝てるのか・・・」
ベッドのそばに暫く腰かけ、じっと寝顔を見つめました。また少し、年をとったかもしれません。ドクターとの話しでは、手術をどうするか、気になります。病室に昼過ぎまでいて、帰りました。
「あれ、お前さん、まだいるの!? いったいどうしたの?」
午前中にいた猫が、なんとまだ同じところに伏せているのです。
「おかしいなあ、もしかしたら、具合でも悪いのかい?」
野良猫のようですから引っ掻かれないように用心しながら、ムッシュは動かない猫の体に触れてみます。けれども、あいかわらずじっとしたままです。
「あっ、お前さん、足にけがしてるじゃないか! こんなに大きな傷がある。そうか、やっぱり具合が悪かったんだね。どうしよう、病院に連れて行ってあげようか? 行くかい?」
咬まれないよう様子を窺いながらそおっと抱いてみましたが、少しも抵抗しません。ムッシュは段ボールに敷物を敷いて猫を入れると、そのまま病院に連れてきました。
「先生、そういうわけで連れて来たんですが、いったいこの猫はどんな猫か僕は全然知らないんです。でも、ほおっておけずにつれて来たんですよ、ちょっと見てもらえますか? 父親と話せたらもしかしたら知っている猫か、知らないか聞けたんですが、今は無理で・・・」
段ボールの中を覗くと、きれいな目をした茶虎がこっちを見返しました。野良猫のように怒ってはいませんが、おとなしいのはよほど具合が悪いからかもしれません。油断はできません。
とりあえず箱から抱え出して、足の具合を見ます。かかとの付近の皮膚がスパッと裂け、皮下組織や腱が露出しており、すでに化膿臭がします。血液検査としたところ炎症反応が高く、レントゲンで下腿骨の骨折が判明しました。
「うーん、やっぱり怪我して動けなくなってたのか・・・、先生、どうしたらいいですか?」
「ムッシュの希望はどうなのですか? 野良猫でしょ、応急処置して逃がすか、それとも家でじっと傷の癒えるまで面倒を見てあげるか、あるいは手術してあげるか・・・」
「うーん、助けてあげたいけど、今年は家族が次々倒れたり、介護が必要になったりが重なって、今度また父親が・・・うーん、でもやっぱり手術してください!」
こうして、大阪から帰ったばかりの朝、優しいムッシュの所に、たまたまその朝迷い込んだゆえに、幸運な茶虎君は、手厚い看護を受けることになったのです。
後日手術も無事終わり、あとは化膿した裂傷を含めて、骨折が順調に治ってくれるか、様子を見ることになります。
世の中には、優しい人がたくさんいますね。つくづく思いますが、幸せな国は、政府が造ってくれるんじゃない。陰で働いているそんな人たちに支えられて、世の中は住みやすくなったり、生きることを楽しく感じたり、できるんでしょうね。
天気予報
六月に入ったばかりですが、九州の梅雨入りが発表されて数日たちます。
夜も十時近くになり、ようやく病院を片づけて勤務終了となりました。カメ子が窓越しに暗い外を見ながら言います。
「どうですかね、先生、外は雨は降っていますか?」
「うーん、どうだろう・・・、えーと、降ってないみたいだね。」
「フフフ・・・、天気予報を信じなくて良かった。今日は夜から大雨の恐れがあると言ってたけど、昼間、空が明るかったから、自転車で来たんです。どうせ天気予報なんて、当たるとはかぎりませんからね。」
「そうそう、男の甘い言葉と、天気予報は、信じちゃだめだよ! カメ子。」
すると、カメ子がぽそりと言った。
「・・・・・、信じてみたい。」
だって、まつ毛は大事!
(まあ、なんてきれいなまつ毛なんだろう!)
風邪を引いた後の咳がいつまでも長引くので、ぺ子が近所の病院に行った時でした。喉にお薬を塗ってくれた看護士さんが、あまりにも眼元のパッチリした美人だったので、感心して見つめました。
(素敵な目だわ、このまつ毛は、本物かしら、それとも、つけてるのかしら?)
ぺ子は気になって仕方なかったのですが、まさか「それ、本物ですか?」なんて失礼なことは聞けません。心の中で気になりながら、黙って帰りました。
それから十日後です。「コンコン」まだ咳が続くので、またお薬を貰いに行った時です。再びその綺麗な看護士さんに会いました。やっぱり素敵なまつ毛です。ぺ子は、もうどうしても我慢が出来なくなりました。
「あのお・・・、とても素敵な長いまつ毛ですね!」
「あら、フフフ・・・、これ、エクステンションなんですよ。」
「へえ、・・・、でも、きれいですね。どうしたら、そんなに出来るのかしら?」
「はい、行きつけのスパがあるんです。月に一回通って、手入れしてもらってるんです。」
「ふーん、毎月ですか・・・、で・・・あの・・・ふーん・・・」
なんて失礼なぺ子でしょう。とうとう看護士さんから、行ってるお店の名前からかかる費用まで聞き出したのです。
皆さん、まつ毛が少しぐらい長かろうが、短かろうが、いいではありませんか。こっちはまつ毛どころか、頭の毛が寂しくなっても我慢しているのに、ぺ子はまつ毛の量なんか増やしてどうするんでしょう。
しかし、後日です。休みを使って、ぺ子は根掘り葉掘り聞きだした例のお店に行ったのです。
「あったあった、ここだわ! こんにちわ、あの、まつ毛にエクステンションをしてもらえますか?」
「はい、どうぞ。・・・で、少し硬めのまつ毛と柔らかめのまつ毛とどちらにしましょう。」
「え! 硬めか、柔らかめか? え、どうしよう、どっちがいいのかなあ・・・」
「料金が違いまして、・・・・・」
まつ毛に硬めと柔らかめの二つが用意されているとは知りませんでした。でも、もし目に入ったら硬い方がより痛そうです。
さあ、ぺ子はどっちのまつ毛をつけたのでしょうか?
もし当院に来られて、彼女のまつ毛に気がついた方は、
「わあ、きれいなまつ毛ですね。まつ毛がすごい!まつ毛が立派!・・・」
と、暇があったら、言ってあげてください。
まだまだ、生かされている限り
「先生、右の胸にしこりがあるんですけど、これ、何でしょうか?」
ダックスのメリーちゃんを連れてムッシュ&マダムKが最初においでになったのは、7年ほど前のことでした。
その頃すでに13歳。
「もう1cmほどになってますね。大きいですから、切りましょうか。」
右胸の乳腺を三つ取って、検査結果は悪性でした。
御夫妻は心配されましたが、幸い再発もないまま2年が過ぎた春、今度はリンパ腫という重い病気にかかりました。
(あら、まあ、またどうして・・・)
御夫妻は降って湧いたような驚きを乗り越えながら検査を進め、大学病院などと連絡を取りながら毎週抗がん剤治療を繰り返し24回、その年のクリスマスには一応治療終了となります。
「すごいね。頑張ったね!」
15歳の誕生日を元気に迎えることができました。ご夫妻にとっては、大切なメリーちゃんの健康を取り戻せて笑顔が広がります。
そしてまた2年後、次は神経障害、突発性前庭障害類似の症状で寝込みますが、まもなく回復します。
「良かった、良かった!」
さすがに17歳の頃は、後ろ足が少し弱ってきますが、まだまだ散歩に出かけていました。
ところが18歳の春、ある日突然のひどい神経症状です。頭を振ったり、上半身をビクビク震わせたり、けいれんを繰り返します。やっとおさまったかと思うと、急に走り出して壁に激突。
何だろう?頭部の疾患か、それとも腫瘍でも発生か?と疑ったのです。病院に抱いて来られた時は立てなくなっており、呼吸も苦しそうになり、
「もう、今度は、だめかも・・・」
御夫妻は(いよいよ、来るべき時が来たか・・・)と、内心覚悟をされました。大きな病気を何度も乗り越え、長生きをしてくれたから・・・、いえいえ、だからといって諦めきれない。やっぱり治ってしっぽを振ってほしいんです。
ところがでした。
「もう、連れて帰ります。家で、世話をして看取ります。」
そう言われて抱いて帰ってから、一生懸命の介護をしていたところ、どんどんメリーちゃんの意識は改善し、また立てるようになったのでした。
ⅯRなどの検査をしないままなので、原因もわかりませんが、一か月たって今や散歩が出来るようになったメリーちゃんです。
「こんなに、元気になったんですよ。それで、診てもらいにきました。それと先生、また、ビタミン剤を下さい。」
「すごいね、メリーちゃん!不死鳥だね。」
「本当に、元気なんですよ。」
マダムがにっこり笑顔で、私たちも嬉しくなりました。ご夫妻にとって、メリーちゃんは力の泉です。
朝のひとこすり八万円
「大変、大変、遅刻しちゃうわ!」
空を見るとどんより曇り、ぽつぽつ大粒の雨も落ちています。出勤の支度が遅れた猫娘は、あわてて赤い軽ワゴンのドアを開けました。カバンを放り込んで、飛び乗ります。
「ちょっと待てよ、食べ残しを冷蔵庫に入れ忘れたかしら?」
女の朝は大変です。人目にさらせる顔づくりをしないと?いけませんし(そうらしいのです)、朝食だって男みたいに食パンかじって飛び出すと言うことはしません。少なくとも朝から美味しいものをちゃんと食べたいのが猫娘です。
従って、全体でどのくらいの時間が必要なのかは、それは企業秘密ですが、その朝の彼女は、時間が普段より険しくなっていました。
「ぶっ飛ばすぞ」
ぶつぶつ言いながら、猫娘はエンジンを始動し、右と左の安全を確認し、車を発進させました。
駐車場から出しながらハンドルを左に切った時です。
「ギギギギー」
「えっ、何、今音がした?」
道路に出る時に、後ろで何か小さな音がしたような気がします。
(まさか、まさか、そんなはずないわよね。)
彼女はすぐに車を止めました。自分を落ち着かせるように言い聞かせて、車を降ります。
せっかく念入りに整えた顔が、恐怖で引きつるのですが、勇気を出して車の左に回ってみました。
「うぎゃー、やっちゃったー・・」
そこには、白く波打つ新しい模様が刻まれていたのです。
へなへなと座り込む猫娘、さっきまでらんらんに秘めていた朝の戦闘開始のファイトは風船が割れるように消え去ります。
・・・・・・・・
「というわけでですね、先生。車にキズがついたから、修理出さなくちゃならない。だけど、八万円だって、わたしもう・・・・、先生、半分出してよ・・・」
出勤してきた猫娘が恨めしそうな顔で、そう言いました。
皆さん、八万円は大きいですね。大金です。
でも、人を轢いたりしたらそんなことでは済まないですからね。一生を奪われる相手に、十分な補償を差し出してお詫びしなければならないから、車を運転する人は保険に入りましょうね。
猫娘、車のキズより、人間は心の傷だよ。車のキズは、すぐ直る。
好きなもので身を滅ぼす・・・
「また皮膚が悪くなったので、お預けしますから、治療をお願いします。」
シーズのリリーちゃんを抱いてマダムKがおいでになりました。リリーちゃんは、アトピーとアレルギーがあり、昨年もしばらく入院したことがあります。
「おやおや、胸や脇がべとべとになって、リンパが滲み出てますか?いかにも痒そうで、真っ赤ですね。」
鼠蹊部も発疹が見られます。家では食事療法も緩やかになりがちなので、確かに入院したほうが良さそうです。
「それではしばらくお預かりしますね。」
「しっかり何でもお願いします。じゃあ、りりーちゃん、がんばってね。」
「待ってよ! 置いてかないでよ!ワンワン!」
しかし無情にもマダムは立ち去ります。いえいえ、顔で笑って背中で泣いて、マダムは心を鬼にして立ち去るのです。それがしかしリリーちゃんには、伝わるはずもないのでした。
次の日から、厳しい食事療法が始まります。
「はい、美味しいよ!リリーちゃん、食べられるのは、これだけだよ。十分経って食べないと、片づけるよ。あとで、インターフェロンの注射をするからね。お昼には免疫調整剤を飲もうね。」
「・・・・・・・」
口をぐいと噛み締めて、スタッフの甘い誘いにも乗らず、院長の迫力不足の脅しにも屈せず、リリーちゃんは一日目は何も食べません。
「今日はどうかな?お腹空いたろ? 美味しいよ、食べなよ!」
まだまだ食べないだろう・・・と予想していたのですが、二日目は割と素直に治療食に口をつけました。
「うん、これなら、行けるかな・・・」
べたべたの皮膚から糸状菌のアルテリナリアも検出されたので、薬を塗っていると、急速にカサカサに乾いてきました。同時に赤みも引いてゆきます。
まあまあ、順調か!と思われたのですが、その後、また療法食を素直に食べなくなります。時々食べるけど、毎日は食べない。思ったより、根性がある奴でした。
深夜見回りの時、リリーの前に座って話しかけます。
「あのね、とりあえずこれで皮膚を治さないと、帰れないよ。好きなもんばっかり食べていたら、体壊すよ!私の爺さんも好きな酒ばっかり飲んでたから、肝硬変になったし、知り合いのおじさんは、なんでもすぐ醤油をかけるから血圧高いし、
そうそう、うちの奥さんも、甘いものが好きだから、しょっちゅう顔にブツブツが出来たとか、つぶやいてるよ。うん、だいたい人間は好きなもんで身を滅ぼすんだよね・・・。」
ケージの中のリリーちゃん相手に人生訓を垂れても仕方ありません。
ただ、話し相手のいない院長の聞き手に、なってもらっているだけでした。
もう一度畑に行こう!
「タローが三日間下痢して、それにしょんべんばっかりすると!」
ムッシュHが中型犬のタローを、農作業用軽トラックに載せて連れて来られました。
「三日間、下痢が続いているんですか?」
「うん、何も喰わんごとなっとる。様子見よったけど、こらいかん思うて連れて来た。」
診察台に上げてもらったタロー君、なるほど立っているのもしんどいようで、腹這いになって伏せてしまいました。
「吐き戻しはありますか?」
「いんや、吐いてはおらんばってん・・・」
八度三分で熱はありません。後ろ足から採血をさせてもらうと、白血球が少し上昇しており、肝臓酵素の一部も増加しています。
しかし最も顕著なのは、胆嚢系と腎臓系の値でした。どちらも非常に高くなっています。
「そうね、そんなら、注射でもしてくれんね。」
「あの、ムッシュ、これはすごく悪そうですから、連れて帰るより入院させた方が良さそうですよ。今日、明日が危ないかもしれません。注射するぐらいじゃちょっと、もう・・・」
「うん、そんなら入院させよう。」
感染症の可能性もあったので隔離室に入れました。ケージに入ったタロー君はやはりそうとうきつそうで、されるがままです。24時間点滴が始まりました 。
「どうね、今日は連れて帰れるね?」
翌日面会に来たムッシュが、そうスタッフに尋ねています。
「いえ、ムッシュ、昨日お話ししたように、三日以上はしっかり治療を続けた方がいいですよ。」
「タロー、タロー、・・・・・」
作業帽の下の日焼けした顔をにっこりさせて、ムッシュは短時間で面会を済ませると、車に乗り込まれました。
また翌日来られたムッシュが言われました。
「もう連れて帰ろうかと思うけど。うちで看取ってやろうかと思うが。」
「いえ、ムッシュ、数字は少しづつ改善して、本人の気分も少し楽そうですから、このままうまくいけば、死なないで済みますから、もう少し治療したらどうでしょうか?」
「じゃあ、置いとこうかね。」
タローの回復はゆっくりでしたが治療には反応してくれるようでした。どうだろうか、嘔吐が始まりはしないか?と、気をもみながらの点滴であり、実際一度は嘔吐をしたのですが、それでも時間がたつにつれ気のせいでしょうか、何となく目に輝きが見えてきました。
結局一週間の入院になりました。130を超えていた尿素窒素の値も 正常に戻る事が出来ました。フードも小分けして与えれば、美味しそうに食べてくれます。
「今日は、連れて帰るよ!」
「そうですね、ムッシュ。そろそろ一度、家で様子を見て戴きましょうか。 タロー君、帰ろうかね。」
来た時と違って、自分でしっぽを振って歩きながら、タローは帰って行きます。それにしても愛犬の一週間の入院は、ムッシュにとっては予定外の出来事になったのかもしれません。
もう11歳をすぎたタロー君ですが、どうぞ順調に回復して、またムッシュと一緒に畑に行けるようになってほしいものです。
中洲のイタチ
「あの、イタチなんですけど、診てもらえますか?」
少し冷え込んできた四月のある金曜日の夜です。マドモアゼルが段ボールを抱えて来られました。
「この中に入っているんですけど、弱っていて・・・」
イタチのすばしっこさを知っている私たちは、箱を開ける前にネットで包み、逃走の備えをして恐る恐る蓋を開け、中を覗いた。暗くてよく見えない。ゆっくり箱を傾け、イタチをネットへ滑り落とす。
スルスルと出てきた茶色の小さな体。鼻の頭が白くて、貧血している。上半身は動かすが、後肢は力が入らない様子でした。
しかし、相手はイタチです。油断しててもし逃げ出されたら大変なので、あくまでも慎重に観察します。
「保護したのは中洲です。はい、道路上で、足を引きずっていたのです。」
「よく、捕まえられましたね。」
「いえ、動けなくなっているのを店長が見つけて、タオルで包んで抑えたんです。」
レントゲンをとるため抱いて移動させようとしたとき、細い鋭い牙をザクリと革手袋に食い込ませてきた。力は弱いが、牙が細いので、針のように深く刺さって来る。
「危ない、危ない」
ネットに入っているからと言って、甘く見なくて良かった。私はあわてて革手袋から手を外し、ネットのままぶら下げてレントゲン室へ連れて行く。
きちんとポジションをとれないのでいい撮影はできなかったが、どうやら足には骨折はなさそう。しかし脊柱に骨折を見つける。
「うーん・・・・・」
お腹は真っ白に写り、腹水の存在あるいは腹部の外傷が疑われた。瀕死の重傷のようです。野生動物で、ケアをしてあげにくいので、回復は難しいと予想されました。
「厳しいですね。本人が治療を受け付けないでしょうから、暖かくして、栄養をとれるよう世話をして、あとは生命力に任せるしかないでしょうか・・・」
二週間有効の抗生物質を注射し、ビタミン剤だけお渡しした。
それにしても、優しい方々です。
道路で倒れてるイタチを捕まえた店長、
「おい、病院に連れて行ってやろう、誰か病院知らないか?」
「じゃあ、調べてみます、私が連れて行きます。」
「うん、じゃあ、頼むよ。僕は店を開ける準備があるから。」
こうして、遠い病院まで連れて来るなんて。
私は中洲の街に暮らす若い方々の、心優しい行動に、感銘を受けずにはおれませんでした。
乙女の牛丼
今月から消費税が8%に上がった。ニュースによれば、牛丼屋さんの対応はこれを機に値上げする店と、なんと値下げする店とに分かれていると伝えていた。
お腹が空いてくる夜も八時ごろ、マル子は掃除をし、病院を閉める準備をしていた。
「私ですね、一度だけ牛丼屋さんに入ったことがあるんですよ。それも一人で。」
「おっ! マル子は行ったことあるのか。フムフム、 話によれば、女性は一人だとラーメン屋さんは入りづらいらしいけど、牛丼屋はどうだった?」
「はい、やっぱりちょっと、入りにくいですね。でもだいぶ前です、行ったのは。もっと若かった時ですが。ある日、どうしてもいっぺん、牛丼を食べてみたくなって、一人で行ったんですよ。
ためらいながらお店に入って、どうしたらいいのかわからなくて、ドギマギしたんですが、他のお客さんを見ていたら、何でもすごく速かったんです。
注文した人たちは、漬物とか味噌汁とか、いろいろ頼んでいて、ガッツリ食べる人が多いんですけど、直ぐ出来て来るんです。ご飯をつぐのも早くて、とにかく何でもすごく早いんです。
カウンターも独特で真ん中が開いていて、(へー、能率がいいのか)と、思いながら、キョロキョロ。
そして、食べて帰るのも早いんです。
まわりの勢いに圧倒され、私、緊張しながら並の牛丼一杯だけ食べました。
どんあ味だったか良く覚えてないけど、でも今なら周囲を気にせず、牛丼だけ見つめて食べれると思いますよ。フフフ・・」
なるほど、男はデパートの下着売り場の前を通る時、ちょっとドキドキするけど、若い女性は牛丼屋のドアを開ける時、ちょっと勇気が要るようです。聞いて見なければ分からないものです。
マルコの一回きりの牛丼屋探検は、こうして今も思い出のアルバムに沈んでいるようです。
夜中の帝王切開
「トルルルルル・・・」
遅くなり、ようやく寝入った夜中の三時頃、自宅の電話がなります。最近親戚の方が亡くなったばかりなので、また何事か!?と妻が電話に出ると、お世話になっている知り合いの先生からでした。
「ゴールデンの出産で、胎仔の前足が頭に引っかかったまま、出て来なくなった。」
「すぐにお出で頂けますか?」
二十分ほど待つと、犬も先生御夫妻もやや疲労した顔で、到着。すでに二頭だけ産み落とした母犬の後躯は、胎盤で緑色に染まっています。
手袋をして産道に手を差し入れて見ると、うん?奥に胎仔の足や頭をやっと触るくらいで、骨盤をまだ通過していません。かなり奥です。以前、別のワンちゃんで、死産で引っかかった時は、鉗子で切り刻みながら取り出しました。今回も、おそらく胎仔はすでに亡くなっているでしょう。しかし、その奥にはまだ生きている胎仔が残っています。
「どうしましょう・・・」
相談の結果、今回は帝王切開となりました。
スタッフの帰った深夜の手術は、準備、段取りを一人でしないといけないので大変です。電話で呼び出せば来てくれるかもしれませんが、そんなことをするとあとで「美味い物食いに連れて行け」と、うるさいかもしれませんので、その日は電話しませんでした。
準備はできるだけ手際よくなるように進めますが、それでも大きなゴールデンに麻酔に入ってもらうまで、御夫妻の協力を戴きながら一苦労です。しかし、今回は、それ以上に大変なことが待っていました。
というのは、実は大きなお腹に、まだ胎仔が9頭も残っていたのです。子宮でふくれ上がったお腹はメスで切開が始まると、次々に出て来るわ出て来るわ、てんやわんやしながら8頭を取り出し、胎膜を破り、羊水を吐かせ、呼吸促進剤を打ち、タオルマッサージし「息をしろ!、息をしろ!」・・・と大忙し。
最後に産道に引っかかっていた胎仔を取り出してみると、腕が頭にかかったまま硬直し亡くなっていました。可哀想に全部で11頭お腹にいたわけですが、三番目に出て来ようとした女の子だけが難産になり死んだのでした。
ただ、生まれたばかりの新生児たちは、もうお腹を空かせたようにひしめき合ってキュウキュウ鳴いています。 福岡の夜間救急動物病院なら、こんな風景はきっとしょっちゅうの事なのでしょう。
全部終わって窓の外を見るともうすっかり明るく、雀もチュンチュン鳴いています。少し眠たさもありましたが、生存を心配した胎仔がこんなにたくさん助かったことが、疲れを吹き飛ばしてくれました。